【連載 深海、その先に】第2回 「しんかい6500」乗船レポート㊦

戸田海底谷へ

海はエメラルドグリーンに紺色が混じり始め、徐々に暗いトーンになっていく。秒速およそ43~45㍍の速さで有人潜水調査船「しんかい6500(6K)」は海底へ降りていく。水深200㍍程度になると船外は真っ暗、ただし漆黒ではない。目を凝らすとたくさんの光の粒が上に昇っていく。これは発光生物だという。船体にぶつかり、その刺激で光るそうだ。海底から上昇する光の流れに目を奪われた。その光るものは時々窓の前で円を描いたり、横切ったり。結構な速さで降下しているのに不思議だ。残念ながらその光景は持参した市販のカメラやビデオでは映らなかった。

▼激しく降る「雪」

6Kのパイロットの松本さんに「ライトつけますか」と声をかけられた。美しい光の流れが名残惜しかったが、せっかくなのでつけてもらった。すると、ペールグリーンの背景に白いマリンスノーが降っていた。激しい降雪のような風景。ホワイトアウトしそうだ。光のありなしで世界ががらりと変わる。マリンスノーは、陸由来の有機物やプランクトンの死骸、生物のフンなどの沈降物の総称だ。マリンスノーの塊が優雅にほぐれる様子を見て、それが雪ではなく、ここが水中であることに気づかされる。時たま、赤い体のエビらしき生物も見られた。
約1時間かけて着底ポイントに着き、海底から100㍍程度の高さで鉄製のバラスト(おもり)を落とす。船の重量と浮力が釣り合う状態になり、6Kは音もなく静止して、そこから降下するためにスラスタ(推進器)を動かし、水深1340㍍の海底へ着底した。窓の外に砂が巻き上がった。
着底したことが海上の「よこすか」に報告されたが、「今日は濁りがひどい」と松本さんが付け加えた。視界不良で何も見えないかしらと落胆したが、すぐに赤や白の生物がはりついた岩場に到着した。そこにいたのは、カイロウドウケツなどの白い海綿や、サンゴのようなものに絡みつくテヅルモヅル、小さな橙色のコシオリエビだ。

マリンスノーに囲まれながらゆったり泳ぐユメナマコ

海底から高度1㍍程度を保ち、戸田(へだ)海底谷の斜面に向かう。ソコダラやギンザメなど細長い魚たちとすれ違った。リボンが縦にひらひらと揺れるような泳ぎをする口先が虹色の魚と目が合った。ウミシダやウルトラブンブクのようなものも無造作に海底に転がっている。窓をフワフワと横切る少し透き通った紅色のユメナマコには驚いた。案外大きい。マリンスノーによる濁りがひどいので、観察をやめて持参したカメラの調整をしていたが、ふと遠目で窓を見た瞬間、ユメナマコに続き、赤い色のクラゲのような、ナマコのような生物が連続して通り過ぎた。窓から目を離してはいけないと反省した。こんなに餌になるマリンスノーがあるのに生物がいないわけがない。

▼イワシは持ち帰り

餌に食いつく魚の写真を撮りたい一心で、「よこすか」の厨房から融通してもらったイワシを6Kのマニピュレータ(作業用の腕)で前面に出し、船を止めてもらった。しかし、少し待っても生物が来ない。おまけに断続的に濁りが塊になって襲ってくる。濁りの原因はわからない。何か大きな生き物が近くを通過したのだろうか。静止中は目の前に大きな黒いナマコが流れてきたくらいだ。仕方ないので、前面のイワシはそのまま吊り下げて航行する。もう上昇まで1時間ほどしかない。海底に何かいないか、海底ギリギリを航行してもらったため前方のバスケットが何度も海底の泥に突っ込んだ。海底の泥と一緒にクモヒトデがバスケットに入った。このクモヒトデには少しの間、私たちの探査に付き合ってもらった。
急に岩質の壁が右側に現れ、これから昇っていく崖に着いた。岩壁との距離を1㍍程度に保ちながら上昇していく。壁に6Kをぶつけないように操船するのは難しそうだが、松本さんらは、小さな窓からの風景と船内の計器等を見ながらスムーズに6Kを動かす。

深海の岸壁でたくましく命を謳歌する生き物たち。カニと魚が確認できる

水深860㍍。ついに数匹のイバラガニが窓から見え始めた。着底してからこれまでまばらにしかいなかった生物がようやく“群集”という状態で見ることができるポイントにきた。相当な数のイバラガニが岩場にへばりついていた。本来の赤い甲羅が、あまりにマリンスノーが降ってくるので茶色く汚れている。小さなタコも見られた。6Kは岩壁に正面を向けて上昇しているので、例のイワシに、タコが興味を示さないか期待したが駄目だった。松本さんに無理をいって、近くにいたイバラガニにもイワシを寄せてもらった。こちらもいらないと言わんばかりに後ずさりする。こうして誰にも食べられないままイワシはそのまま「よこすか」に持って帰ることになる。生物採取はできなかったが、泥がたまった場所に筒状の容器をマニピュレータで刺して採泥した。あまりの作業のはやさに、ここが深海という特殊な場所であることを忘れる。
そうこうしているうちに離底の時間がきた。私は離底直前の水深831㍍で用意してもらった昼食のサンドイッチを1口いただいた。普通においしいツナサンドだ。何か斬新な感想を言いたかったが、船内は大気圧とほぼ同じなので味覚は変わらない。

▼他の星のような…

窓の外のマリンスノーの流れを眺めながら、サンドイッチを片手に横になって観察を続けた。窓の外も間違いなく地球だが、どこか他の星に来たような不思議な時間が流れていた。今回の潜航では、6Kの放つ光が届く数㍍の世界しかのぞけなかった。その先には私たちが知らない様々な生き物が住まう世界が広がっているのだろう。なぜ、さきほどの岩壁にカニなどの生物がたくさんいるのかもわからないのが現実なのだ。
途中、船外のライトを消してもらい、また光の粒の流れを観察した。名残惜しい。帰りは降下時の4分の1程度の時間で海水面に戻ってきてしまった。窓の外が明るいと思ったら、窓の外のエメラルドグリーンが一瞬濁った。バスケットに残っていた泥が海面に出てきた勢いで舞い上がったようだ。大きな波に揺らされ「よこすか」への揚収を待った。アトラクションのような派手な揺れ方だ。ようやく深海から戻った実感がわいた。

※生物名はあくまで主観に基づいた表記です。